
子供あそび<打毬>
天保頃 (1830-1844)
- 資料名1
- 子供あそび<打毬>
- 史料名1よみ
- こどもあそび だきゅう
- 史料名Roma1
- kodomoasobidakyuu
- 絵師・著者名
- 貞房(歌川 貞房)
- Creator
- 落款等備考
- 貞房画
- 板元・製作者
- @
- 制作年和暦
- 天保頃
- 制作年西暦
- 1830-1844
- 書誌解題
- 資料名1
- 子供あそび<打毬>
- 資料名2
- 史料名1よみ
- こどもあそび だきゅう
- 史料名2よみ
- 史料名Roma1
- kodomoasobidakyuu
- 史料名Roma2
- Title
- Alternative title
- シリーズ名・代表明細
- 子供あそび<打毬>
- 絵師・著者名
- 貞房(歌川 貞房)
- 絵師・著作者名よみ
- さだふさ (うたがわ さだふさ)
- Creator
- 管理No.
- 00000613
- 管理No.枝番号
- 落款等備考
- 貞房画
- 板元・製作者
- @
- 彫摺師
- 制作年和暦
- 天保頃
- 制作年西暦
- 1830-1844
- 制作年月
- 書誌解題
- 判型・形態
- 大判
- 印章の有無
- 印章内容
- 複製フラグ
- 種別1
- 木版浮世絵
- 種別2
- 錦絵
- 種別3
- 内容1
- 子ども絵
- 内容2
- 遊戯 遊び
- 内容3
- 打毬
- テーマ
- 武士の子どもたちによる打(だ)毬(きゅう)の試合である。打毬は紅白に分かれた騎馬の二組が、会場に置かれた毬を馬上から毬(ぎっ)杖(ちょう)ですくい上げて、毬門に投げ入れる競技である。普通紅白各4騎ずつが、紅白4個ずつ置かれた毬から、自軍の色の毬をすくって早く4個すべてを毬門に投げ入れると勝ちであった。時間までに、多くの毬を投げ入れた方が勝ちとする場合もあった。馬を相手の馬に寄せて妨害するなど勇壮な試合で、八代将軍吉宗の時代に武芸として奨励され、各藩で盛んに行われた。
- 具体物
- 馬上の二人の少年はたすき掛けで袴をはき、腰には刀を差し、鐙(あぶみ)にしっかり足を乗せている。右の少年は毬杖で毬を毬門にむかって投げたところで、左の少年はそれを妨害しつつ地上の毬を拾い上げようとしている。左の赤毛の馬は、胸懸(むながい)に赤い房を飾っている。回りには紅白の毬が散らされ、右上には満開の桜の枝が見える。二人が持つ毬杖の網の部分は、実際はこれほどそこが深くなく、少しへこんだだけだ。
- Comments
- 位置づけ
- 江戸初期には、武士にとって戦闘・威儀両面で馬術は欠かせず、200石以上の武士には乗馬が義務付けられていた。泰平の世で馬術も次第に疎かになっていたが、吉宗が奨励して盛んになり、打毬も復活した。本図は、打毬に励む武士の少年であり、題は「子供あそび」であるが、少年の武術訓練である。題材が武士の少年であり、その武術が打毬であり、浮世絵として大変珍しい貴重な作品である。
- 讃・画中文字
- 自由記入欄
- 各藩の打毬は、明治維新以降は次第に姿を消したが、今に宮内庁・八戸市・山形市の三か所で継続されている。また、打毬を双六遊びのようにしたさいころゲームも生まれ、公文所蔵に「源平打毬合戦双六」「打毬合戦双六」「ざしきあそび打毬」がある。馬尽しのおもちゃ絵「新製馬乗づくし」にも、打毬が描かれている。
打毬は中央アジアの遊牧民の世界で生まれ、唐の時代に日本にも伝来したが、やがて衰えていたのを八代将軍吉宗が復活した。いっぽう、19世紀にインドのインパール駐在のイギリス騎兵隊が習得、本国に持ち帰って近代的馬術競技としてのポロとなった。
- 史料分類
- 絵画