
教導立志基 四十五 福地源一郎
明治18年 (1885)
- 資料名1
- 教導立志基 四十五 福地源一郎
- 史料名1よみ
- きょうどうりっしのもとい
- 史料名Roma1
- kyoudourisshiki45 hukuchigenichirou
- 絵師・著者名
- 小林 清親
- Creator
- 落款等備考
- 真生 清親
- 板元・製作者
- 松木 平吉
- 制作年和暦
- 明治18年
- 制作年西暦
- 1885
- 書誌解題
- 資料名1
- 教導立志基 四十五 福地源一郎
- 資料名2
- 史料名1よみ
- きょうどうりっしのもとい
- 史料名2よみ
- 史料名Roma1
- kyoudourisshiki45 hukuchigenichirou
- 史料名Roma2
- Title
- Alternative title
- シリーズ名・代表明細
- 教導立志基
- 絵師・著者名
- 小林 清親
- 絵師・著作者名よみ
- きよちか (こばやし きよちか)
- Creator
- 管理No.
- 00000980
- 管理No.枝番号
- 004
- 落款等備考
- 真生 清親
- 板元・製作者
- 松木 平吉
- 彫摺師
- 制作年和暦
- 明治18年
- 制作年西暦
- 1885
- 制作年月
- 書誌解題
- 判型・形態
- 大判
- 印章の有無
- (御届)
- 印章内容
- 複製フラグ
- 種別1
- 近代版画
- 種別2
- 木版画
- 種別3
- 内容1
- 物語画 人物画
- 内容2
- 歴史 逸話 偉人
- 内容3
- 福地源一郎
- テーマ
- 福地源一郎(桜痴)は、明治時代のジャーナリスト。長崎の生まれだが15才で蘭学を学び、18才で江戸に出て英学を学び、文久元年には渡欧して新聞に関心をよせるようになった。明治になると新政府に仕えて渡米。帰国後に「東京日日新聞」の主筆となった。明治10年の西南戦争では、征討軍の従軍記者を務め、陛下に戦況報告の光栄を得た。新聞記者の先駆けとして評価・紹介している。
- 具体物
- 西南戦争に従軍記者として参加し、取材中の福地である。黒い山高帽をかぶり、フロック・コートに縞のズボン、長靴姿で、戦場にはそぐわない西洋の礼服にしてある。脇にステッキをかかえ、ノートを広げてメモをとっている。足元にはサーベルが捨てられ、大木も砲撃でちぎれている。背後では、背嚢(はいのう)を背負って銃を手にした兵士が川を渡り、急坂を登っている。これは、福地が実際に従軍した田原坂での激戦をイメージしたものであろう。
- Comments
- 位置づけ
- 「教導立志基(きょうどうりっしのもとい)」は明治18年頃から5,6年間にわたって刊行された教育画で、さまざまな人物の逸話から志を立てることの重要性を説いている。全部で53枚とされ、芳年・国周・清親など、当時の代表的絵師が参画している。スマイルズの『西国立志編』が中村正直の翻訳で大評判となったのを受けて、日本人の立志伝をとまとめたものである。人物も著名な偉人ばかりでなく、ミドルクラスの刻若勉励や自主自立のための自己努力を中心に人選してある。元就・家康の幼年時代を紹介したり。内侍・静・秋色など才能ある女性を取り上げたところに明治らしさが感じられる。
- 讃・画中文字
- 福地源一郎(ふくちげんいちろう)は天保十四年長崎に生まれ 聰慧(そうけい) 五才にて字を能(よく)写(うつ)す 七才にして書を読む 幼稚(いとけなき)より幕臣(ばくしん)たらんことを志(こころざ)し壮年(そうねん)にて政府に事(つか)へ欧州各国へ航(こう)すること三度(みたび) 後 市井(しせい)に退き 商業社会を益(ま)す 明治六年 日報社(にっぽうしゃ)社(々)長となり 西南の乱には戦地の実況を視察し 天顔(てんがん)に咫尺(しせき)し親しく奏上す 且(かつ)論理(ろんり)文勢(ぶんせい)暢達(ちょうたつ)にして 真に仙筆(せんぴつ)とも云(いう) 実に明治の一傑俊(けっしゅん)なり 東紅 述
- 自由記入欄
- この揃物も終わりの方では、45福地源一朗、48田中鶴吉のように、当時話題になった明治の新しい人物を加えてある。これもスマイルズの『西国立志編』と同じ傾向である。
- 史料分類
- 絵画