
11月15日に祝う「七五三」。かつては江戸や周辺の人々が、家族で近所の氏神さまに子の成長を報告するものでした。
当時はよそおいも今とは違い、髪も生まれてすぐにそり、3歳から伸ばし始めました。衣服も、男の子は5歳で大人と同じはかまをはき、女の子は7歳で大人用の帯をしめる習わしがありました。このように、大人への階段を上るふしめの年を、いつしか「七五三」と呼ぶようになったのです。
ここにもおしゃれをした楽しげな一家がいますね。今から170年前の江戸の七五三の様子です。左には女性におんぶされた小さな女の子、中央には男性の肩に乗った少女が。彼女は菊もようの振り袖と、頭に角隠しをつけています。右には裃姿で正装した男の子が、お母さんに何かねだっているようです。お付きの少年が持つ、千歳飴がほしいのでしょう。甘くておいしい千歳飴が作られたのも江戸時代でした。
幼児の死亡率が今よりもずっと高かった当時、親はわが子が、早く大人の入り口とされた7歳になることを願いました。「七五三」という数字には、いとしい子の成長を願う大人たちのいのりがこめられています。

七五三祝ひの図(三代歌川豊国(歌川国貞))弘化元年(1844)

大人向け解説
養子を認めず二代目自称
浮世絵師の中には、実にユニークな逸話を残す人がいます。この絵の作者で、数万点もの作品を手掛けたとされる初代歌川国貞(1786~1864)もその一人です。
彼は本図を描いた年に、師の豊国の名を襲名します。画中の落款(サイン)にも「国貞改二代豊国」とあります。しかし、実際には彼は二代目ではなく三代目でした。一足先に、初代の養子であった豊重が二代を継いでいたのです。
二代の活躍期は短く、既に浮世絵界の重鎮であった国貞はその存在を認めず、あえて「二代」を自称したとも言われます。狂歌にも「歌川を うたがわしくも名のり得て 二世の豊国 偽の豊国」と詠まれるほど、このエピソードは有名だったようです。