参考論考・参考文献


「よみがえる江戸の子ども文化」(稲垣進一)
稲垣進一(国際浮世絵学会常任理事)
出典:『浮世絵に見る江戸の子どもたち』(くもん子ども研究所編、小学館、2000年)
子ども浮世絵発見
「子ども浮世絵」。聞き馴れない名称だ。 浮世絵といえば歌麿の美人画、写楽の役者絵、北斎・広重の風景画と、長い間、私たちの浮世絵の概念は固定化されていた。そのため江戸期に花咲いた庶民文化の多くを忘れ去ってしまった。その根は深い。
明治維新政府の江戸文化否定、富国強兵、欧米文化の流入と急激な価値観の変動で伝統文化は意識の片隅に追いやられた。1867年(慶応3)のパリ万国博覧会に参加したことでヨーロッパにジャポニスムのブームが興り、日本では価値のなくなった浮世絵は大量に輸出され、近代の芸術史観で評価された。そしてその価値観は日本に逆輸入されたが、あまり認められず、戦前はほそぼそと懐古趣味者に懐しがられた程度で、女子どものおもちゃで価値がないとさげすまれ、多くが消滅していった。江戸趣味者のコレクションも秘蔵されるだけで人の眼に触れることは少なかった。しかし、戦後、民主主義の時代となって浮世絵は復権しつつあった。
私は三十数年前のこと、デパートの骨董市に迷い込んで偶然幕末の役者絵を入手したことで、美術館・博物館や画集にもない浮世絵が現代社会の片隅に眠っていることを知った。それからというもの歴史から抹殺された浮世絵の探索をはじめた。それは江戸時代というジャングルを探検し宝探しをするようなワクワクする楽しみだ。ジャングルには数万数十万の浮世絵が、そこここに隠されていたのだ。その中から私は『江戸の遊び絵』『国芳の狂画』(共に東京書籍刊)を発掘することができたのだった。まだまだ「子ども絵」や「物語絵」も現れてはどこかへ消えて行く。自分の小遣いでは手に負えない。
そんな折、教育資料を集めているくもん子ども研究所の中城正堯氏の知遇を得、子どもをテーマとした浮世絵を集めるよう勧めたのであった。目的と資力を備えた組織が集めたから、これまで見たこともない作品が続々と出て来る、出て来る。驚くほど短期間に子どもに関する浮世絵の一大コレクションが形成された。個人の力でとうていできることではないし、くもん子ども研究所の収集がなかったら、この分野の研究はさらに数十年遅れたかも知れない。
その成果としての画集『浮世絵のなかの子どもたち』(くもん出版刊)、展覧会「浮世絵の子どもたち」の国内(東京・大阪・高知・秋田・北海道・茨城・山口)海外(パリ・エジンバラ・モスクワ・ケルン)での開他は、このジャンルの浮世絵研究の大きな地平を開いたのであった。
「子ども浮世絵」とは
「子ども浮世絵」とは子どもを対象とした浮世絵で、その形態により絵本と一枚絵に分類することができる。一枚絵はさらに次のように分けられる。
【鑑賞を目的としたもの】
I 子ども絵……子どもの生活を描いたもの。
(1) 遊戯絵=子どもが一人あるいは数名で遊んでいる情景を描いたもの。
(2) 年中行事絵=祭りや節供など年中行事を行っている情景を描いたもの。
(3) 見立絵=子どもの遊びを歴史・物語・芝居・職業など別のものに見立てて描いたもの。
(4) 母子絵=母と子の情景を描いたもの。(母が姉・芸者・遊女の場合もある)
(5) 手習絵=手習いをしているところ、あるいは寺子屋へ通う情景。
などがある。
Ⅱ 子ども物語絵……子どもが鑑賞するために描いた物語絵。
(1) 金太郎絵=金太郎を主人公として描いた絵。山姥と金太郎を描いた絵。
(2) 昔話絵=昔話・お伽話を描いた絵。
(3) 武者絵=歴史・物語に登場する武者や合戦を描いた絵。
(4) 妖怪絵=妖怪・化け物を描いた絵。
など。
【実用を目的としたもの】
Ⅲ おもちゃ絵……切り抜いたり、折りたたんだり、貼ったり、組み立てたり、ゲームをしたりして遊ぶ浮世絵。
(1) 物語こま絵=画面が格子状に分割され、切り抜き、組み立てて豆本に仕立てるための絵。
(2) 凧絵=切り抜いて手製の豆凧を作るための絵。
(3) 羽子板絵=切り抜いて手製の羽子辰を作るための絵。
(4) ものづくし絵=あるテーマに添って集めたものを標本のように並列したもの。
(5) 両面絵=人間や動物など前後両方から描き並列したもの。切り抜き貼り合わせて遊ぶ。
(6) 面絵=画面を方形に区切りさまざまな面を描いた面づくし絵。切り抜いてメンコにする。
(7) 姉様絵=さまざまな風俗や姿の女性の表裏両面を描き並列したもの。切り抜き貼り合わせて女の子の人形遊びに用いる。
(8) 着せ替え絵=人物とそれに同寸の衣装や小物を配し、切り離して着せ替え人形を作るためのもの。
(9) 影絵=切り抜いて影絵遊びをするためのもの。あるいは影絵の遊び方。影絵の趣向のもの。
(10) 文字絵=着ものなどの描線の中に文字が組み込まれた絵。
(11) 絵文字=文字の中に人冊や動物等がはめこまれた絵。
(12) 唄絵=ちんわんぶし、まり唄など流行歌の文句を描いたもの。
(13) かつら合わせ=役者の似顔絵とそれに付け替える役柄のかつらを並べたもの。
(14) 切子絵=切り抜いて香箱を作るためのもの。
(15) 折り変わり絵=折りたたむことにより絵が変わるもの。
(16) 判じ絵=絵や文字を並べて言葉を推測する。絵でみる謎なぞ。
(17) かるた絵=切り抜いていろはかるた・百人一首の歌かるたを作るための絵。
(18) 組上絵=組上灯籠絵・切組灯籠絵・立版古ともいう。回り灯籠、祭屋台、歌舞伎舞台、建造物、合戦場面、兜、雛壇などを組み立てるための絵。
(19) 千代紙=さまざまな模様を散りばめたもので、小箱に貼ったり紙人形の衣装などに用いるもの。
Ⅳ 絵双六……大判錦絵四枚ほど貼り合わせた大きさの正月用ゲーム。サイコロを振って振り出しから早く上りに到達した者が勝ち。サイコロの目の数だけ進む「回り双六」と、目が進み先を示す「飛び双六」がある。
子ども浮世絵の歴史
子どものために描かれた浮世絵の誕生は意外に古い。寛文(1661-73)の頃、浮世絵の始祖・菱川師宣が世に名を表した同じ時期である。墨一色摺りの素朴な絵の中に文を書きこんだ昔ばなしの小型絵本。縦13×横10センチ、赤い表紙で赤本と呼ばれた。絵師名の記載はない。長い間、赤本は江戸で生まれたと思われていたが、昭和55年、松阪市の射和寺に安置されていた南北朝時代の作と推定される木造地蔵菩薩の胎内から子どもの供養のために納めた十冊の上方の子どもの絵本が発見されて、江戸発祥説が覆され、同時期に上方でも出版されていることが分かった。
正徳(1711-16)頃の初代鳥居清倍に金太郎が熊を投げる役者絵や子どもを抱いてあやす美人画があり、子ども浮世絵は十分に商品となって市中に出ていたと思われる。享保6年(1721)の出版取締の布令に子どものための絵本や一枚絵は宜しい旨が記されていることから、子ども浮世絵は社会に十分認知されており、厳しい取締に制限を受けることなく庶民を楽しませていたようだ。

鈴木春信 <夏姿 母と子>
では、子どもの生活を描いた子ども絵はどうであろうか。室町時代に唐絵と称して中国絵画の技法様式が日本にもたらされたとき、山水・仙人・花烏とともに中国の子どもが遊んでいる情景がテーマの「唐子絵」も入って、江戸時代初めには狩野派の絵師に受け継がれていた。浮世絵に唐子遊びが描かれたのはいつからか定かではないが、宝暦(1751-64)頃、奥村政信の「子供輦遊び」で中国の帽子を被った江戸の子どもが描かれていて、この頃「唐子遊び」から江戸の「子ども遊び」が生まれたとされている。以後、唐子絵と子ども絵は共存し紅を中心とした三、四色の紅摺絵の時代を経て十色以上多色摺の「錦絵」の時代に入る。錦絵を創始した鈴木春信の唐子絵・子ども絵どちらも可愛らしく、あどけない少女の風情の母と人形のような子どもの組合せも人気があったと思われる。
くもん子ども研究所の収集で、春信なきあとの安永期(1772-81)に新しい美人画スタイルを創った北尾派の祖・北尾璽政や役者似顔絵を剣始して天明期に人気をさらった勝川派の祖・勝川春章など子ども絵を描いたと思われていなかった絵師の作品が続々と新発見されたことは大きな収穫だ。浮世絵の歴史はまだまだ不明なところが多い。注文制作の町絵師である浮世絵師は版元の注文とあれば何でも描かなければならなかったし、何でも描ける力を持っていたのだった。

菊川英山 <すな鳥子供遊び>
寛政期(1789-1801)は喜多川歌麿の活躍期。なぜか母子絵が多くなる。中でも山姥と金太郎図が寛政8・9年(1796・97)頃に集中して刊行された。寛政の改革の取締りで美人画出版に厳しい規制が加えられ、その抜け道として出版された母子絵であると推測されている。
天明期に八頭身美人を描いた島居清長は寛政期には美人画の人気が歌麿に移ったのでもっばら金太郎と子ども絵を描いた。さすが健康的で爽やかな画風である。文化3年(1806)歌麿急死の後はその画風を引き継いだ菊川英山の母子絵・子ども絵が多い。英山描く母は歌麿より慈愛あふれ、子どもは無垢で愛くるしい。歌麿人気を上回ったのではなかっただろうか。多くの佳作が遺されている。
続く文政・天保期(1818-44)、庶民の経済力はますます力を得て輝きを増す。この時期の活躍は歌川派の三人の実力者。美人画役者絵で人気の国貞(後の三代豊国)は母子絵、武者絵が一番の国芳は子ども絵と子ども物語絵で多くの作品を遺している。国芳の明るく活発な子どもの姿、見る者を空想の世界に引き込む子ども物語絵は幕末の子ども浮世絵を豊かにしたといってよい。風景画の広重は子ども絵がほとんどないが子どもの遊びを一面に散らした「風流おさな遊び」(男・女)二枚組のみで強烈な存在感を示している。画風の異なる菊川派の渓斎英泉も子ども絵と人気の美人画を生かした母子絵で気をはいた。
幕府の逼迫した財政とは反対にますます活発になった庶民の経済活動を押さえる天保の改革は失敗。弘化・嘉永期(1844-54)には以前にも増して出版は隆盛になっていった。徳川政権が崩壊するまでの政治が激動の時代であったが、歌川三巨匠の弟子たち―貞重・貞虎・貞秀・国輝・国明・国綱・芳艶・芳幾・芳年・芳虎・芳藤・暁斎・広景―の活躍でおもちゃ絵をはじめとする子ども浮世絵はなおいっそう花盛りとなった。
江戸のこども浮世絵は子どものユートビアであった。子ども浮世絵は暖かい、見ているとほっとする、心がなごむ。こんな精神的にもゆとりのある時代を私たちはかつて持っていたのだ。
本書に掲載されているのはほんの一部である。子どもをテーマとした出版文化がこんなにもあったことに驚かされる。そして江戸時代の庶民はいかに子どもを教育したことか。江戸時代からのメッセージに現代の私たちは何を読みとるのか。ここから何かが見えてくるだろう。江戸庶民の子ども文化の研究に大きく資するに違いない。